はばたき情報局

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氷室零一の「アンドロイド性」について【考察】

久々のブログ更新となりました。

書きたいことは山ほどあるのですが、色々なタスクに追われてなかなか手を付けられず……。

今回は、氷室先生中心webアンソロジー『ときめき♡せんせぇしょん!』に寄稿させていただいた考察をそのまま公開いたします。

当アンソロジーの専用webサイトがあり、そちらに私の考察も含めた全作品(小説・イラスト・漫画)を閲覧できるようになっていますので、ぜひそちらも見ていただけたけたらと思います。とてもかわいいデザインのサイトです!!期間限定公開の可能性もあるので、お早めにどうぞ!!リンクは👇になります。
ときめき♡せんせぇしょん webサイト

 

以下、本文です。宜しくお願いします!!

↓↓↓

 

氷室零一の「アンドロイド性」について

目次

1.はじめに

2.氷室零一の家族関係について

3.イベント、会話から考える「アンドロイド性」

3-1.『ため息』とジャズ

3-2.氷室零一とホラー

3-3.氷室零一と爬虫類

3-4.親友ルート

4.概念と現象

5.おわりに

 

1.はじめに

はばたき学園の生徒から「アンドロイド」と表現されることのある、はばたき学園数学科教員の氷室零一。今回は、なぜ彼が「アンドロイド」と呼ばれるのか、またなぜそのような人物になったのかを、ゲーム内のテキストと公式小説を参照しながら考察していこうと思います。

まず、「アンドロイド」とは何か、というところから押さえていきます。アンドロイド的な要素・性質をここでは「アンドロイド性」と名付け、氷室零一のもつアンドロイド性について明らかにしていきます。

アンドロイドとは、人造人間とも呼ばれ、人型ロボットなど人間を模した機械や人工生命体の総称とされています(Wikipedia「人造人間」参照)。つまり、氷室零一は人間の姿はしていても、人工的で人間らしからぬ要素を持っている、ということです。

人工的で人間らしからぬ要素(少々暴力的な表現にはなりますが、人間的ではない要素)とは具体的にどういうことを指すのでしょうか。何を“人間的”と呼ぶのかは人によって異なると思いますし、人間というものはあまりに多様なので、これに対する明確な答えは存在しないということ前提に話を進めていきます。

氷室零一の「アンドロイド性」というものは、①表情(感情表現)の乏しさ、②(社会の規律を守るという限定的な意味での)完全性という二点からきていると私は考えています。

①表情(感情表現)の乏しさについて

教師としての氷室零一は、喜怒哀楽をほとんど示しません。例えば、ルールを守らない生徒に対して叱ることがあっても、「怒り」を感じるような声色や表情は出さず、常に冷静沈着、淡々と話します。しかしながら、完全に感情を隠せているかと言えばそういうわけでもなく、氷室零一と藤井奈津実の静かなる対決を見ることができる「ナイスキャッチ」イベントでは、「無駄だ。私には通用しない」というときに挑戦的で不敵な笑みを浮かべる。そういうところを見ると、「感情がない」というよりも「感情表現」の幅が一般の人よりも狭いだけともとれる。この時折見せる僅かな感情表現を見出していくことに、氷室零一ルートの良さを感じる人もいるでしょう。

②完全性について

氷室零一は、校内での規律や社会のルールに厳しいことも特徴的です。例えば、GS3では逃げる桜井兄弟を追いかけるときでも、廊下では必ず歩きます(だから一生追いつけない。かわいい)。規律だけでなく、何かを行うときも必ず綿密な計画を立てて実行するという意味での完全性もあります。吹奏楽部では「完全な調和」を目指していますし、体育祭前の下校会話では「私は半年前から生徒の身体能力を分析し、綿密な計画を立ててきた」という発言も見られます。そういう意味での非の打ちどころのなさが氷室零一にはあって、このような完全を求める姿勢が生徒にとってはアンドロイド的に感じられるのかもしれません。

ここまで、氷室零一の「アンドロイド性」について簡単に触れてきました。第2章では、なぜ氷室零一がこのような「アンドロイド性」を有したのか、その過程を彼の家族関係から探っていきます。また、第3章では彼のアンドロイド性を感じられるいくつかのイベントや会話をピックアップしながら、氷室零一という人物を深めていきます。第4章では、公式小説に出てくる「概念と現象」について語ります。これは彼のアンドロイド性を深めるうえで重要なところになるかと思います。

 

2.氷室零一の家族関係について

ここからは相坂ゆうひ著、内田明里原案・監修の公式小説『ときめきメモリアルGirl’s Side ②』(電撃文庫の内容を参照しながら、氷室零一の幼少期や家族について書いていきます。

氷室零一の家族関係についてはゲーム本編の方ではあまり詳しく書かれていないのですが、公式小説の方では割と家族に関する記載(主に父親について)があります。小説を公式の設定と言えるのかどうかについては微妙なところですが、一応内田明里原案・監修の小説なので、これを公式設定としても問題はないかなと。

氷室零一の家族構成は、公式小説を読む限り、母、父、零一の三人家族だと思われます。母親は「良家の出で幼いころからピアノの英才教育を受けて育った」、父親は「ジャズピアニスト」と小説には記載されています。両親ともにプロの音楽家で、演奏のためにあちこちに飛び回っていたようです。氷室零一がピアノを弾ける、しかも演奏技術が高いということにも納得ですよね。

ただ、ずっと三人で暮らしていたわけではないようで、氷室零一が幼い頃(ある程度言葉は扱える時期のようなのでおそらく小学生頃)に両親は離婚し、父親が家から出ていき、母親に引き取られる形になったようです。離婚の原因については語られていません。

氷室零一がアンドロイド的な要素を持ち始めきっかけは、この幼い時期の家庭環境が一番にあるように思います。特に「感情表現」に関しては、この時の家庭環境に大きく影響を受けているのではないかと私は思いました。

氷室零一はなぜ感情表現が乏しくなってしまったのか。その理由は以下の二点。

①人(親)と関わる時間が短すぎた。

②自分よがりな感情表現は人を困らせてしまうと学習した。

これが氷室零一の感情表現の乏しさにつながったと考えています。では、この二点に関してもう少し具体的に見ていきたいと思います。

【①人(親)と関わる時間が短すぎた】

第二章の初めの方に、氷室零一の両親はプロの音楽家で、演奏のためにあちこちに飛び回っていたと書きました。その演奏旅行に子ども(零一)も連れて行っていたとしたらまだよかったのかもしれないのですが、公式小説を読む限りでは、両親が演奏会のために飛び回っている間は家で一人過ごしていたと読み取れます(これだけを見るとネグレクトっぽく感じますが、実際のところはよく分からないので何とも言えません。母親を嫌っているわけではなさそうなので、少なくとも一人でもちゃんと過ごせるように環境は整えていた、とは思います)。

なぜ親と関わる時間が短いことが感情表現の乏しさにつながるのか私なりの考えを書いていきます。私は教育学・心理学の知識をもとに考察を深めていく傾向にあります。見方に偏りがあるかと思いますが、その点ご理解いただければと思います。

幼少期は親との関わりを通して、感情の概念や言語を獲得していきます。もちろん大人になってからも常に学習し続けるのですが、幼少期は特に親との関わりによって言語の獲得が急速に進み、また愛着やアイデンティティの形成に大きな影響を与えます。親から掛けられる言葉、自分の行動に対する親の反応、微笑みかけられたり、優しく抱かれたり……そういう親とのコミュニケーション(言語・非言語)の蓄積が、その子どもの世界を広げます。意味のない世界が広がる中で、言葉を掛けられることでパターンを学習し、少しずつ概念を学習していきます。親との関わりを通じて、世界を広げていくのです。

氷室零一の親は音楽家であちこち飛び回っていたという記述があり、両親が零一と関われる時間は比較的短かったのではないかと推測します。公式小説にこのような記述がありました。

「音楽の道に進むかどうかを考えるまでもなく、氷室少年はいつもピアノの前にいた。両親は演奏旅行に出かけることが多く、氷室は幼いころから広い家でひとり、音と戯れて過ごすことが多かった。人間と会話するよりも、ピアノと会話する時間が長かった。」

出典:相坂ゆうひときめきメモリアルGirl’s Side②』

“人間と会話するよりも、ピアノと会話する時間が長かった”

この部分がポイントかなと思います。「人間との会話」と「ピアノとの会話」ではその会話の質は大きく異なります。人間との会話では、自分が発した言葉や行動に対する相手の反応がその時々によって変化しますが、ピアノは基本的に反応に変化はなく、調律されていれば鍵盤を押さえるとその鍵盤に対応した音が返ってきます。また、その音程や音量は自分でコントロールできてしまいます。相手の反応をコントロールできるかどうか、予測可能かどうかというのが人間とピアノ(モノ)との大きな違いかと思います。

相手が人間であれば、同じ言葉をかけたとしても、相手のその時の気分や経験等によって反応は変わりますし、相手が変わればまた反応も変わってきます。その反応の違いが概念に多様性をもたらし、その言語や感情の理解の精度を上げていきます。「笑う」という表現一つをとっても、嬉しいときもあれば、面白いと感じるときも笑うことがありあり、また相手の言動に戸惑うことで愛想笑いする場合もあり、「笑う」にも多様性があります。人間と深く関わっていくことで、感情表現の幅が広がっていくのです。

しかしながら、氷室零一は人間よりもピアノと会話する時間の方が長かったと公式小説に書かれています。ピアノや音楽から学ぶことは多々あったと思いますが、幼少期の感情の精度は人間と十分に関わりを持てた子と比べてもやや低かったのではないかと思います。氷室零一は「無表情」と評されることもありますが、それも感情表現(感情概念)の乏しさが一つの要因ではないだろうかと考えています。

【②自分よがりな感情表現は人を困らせてしまうと学習した】

「氷室先生ってなんでいつも冷静でいようとするんだろう」

これは氷室零一を攻略している時に私が思ったことです。なにかトラブルが生じたときに、感情的になってしまうと余計にこじれてしまうことが多いのは経験上分かっているのですが……。彼は冷静な態度を示しつつも、内なる熱い感情をにじみ出すような言動を時々するなと思っていたので、なぜあんなにも冷静であろうとするのだろうと考えていました。

「大人」「教師」として、冷静に状況を把握し生徒を導いていきたい、という気持ちもあるんだろうと思います。ただ、それだけではなさそうです。公式小説にこのような記述がありました。

「父が悪いわけではない。母が悪いわけではない。離婚はふたりが出した結論だし、それに異を唱えるほど氷室は子どもではなかった。また、感情的でもなかった。

もともと心のうちを表現することは苦手だった。表情、声、言葉。そんなものでどうやって、この形のない「心」などというものを伝達しろというのか。」

 

出典:相坂ゆうひときめきメモリアルGirl’s Side②』

この部分だけ読むと、氷室零一は生まれながらにして“冷静”な子だった、感情表現が苦手だった、とも読み取れるのですが、あくまで氷室零一の“主観”でしかない、と捉えれば、もう一つの見方ができます。

私としては、元来冷静だったと考えるよりも、人との関わりの少なさによる感情概念の学習の欠如と親の離婚が彼の“冷静さ”に大きな影響を与えている、と考えた方が自然だと思いました。感情概念の学習の欠如については①で述べたので省略し、親の離婚に焦点を当てて考えます。

親の離婚というのは、子どもにとって非常に大きなイベントです。両親の何とも言えない不穏な空気感を感じ取り、子どもの心を不安定にさせます。今まで当たり前のように一緒に過ごしていた人が急にいなくなる、家族ではなくなる……その大きな変化は、子どもを動揺させます。感情もあまりに大きくなりすぎると、特に悲しみや苦しみなどの負の感情は自分自身の感覚を麻痺させます。場合によっては、失感情症(アレキシサイミア)に陥る場合もあります。おそらく氷室先生はその診断が下されるまでには至っていないと思いますが、アレキシサイミアの傾向は多少あるのではないかと思います。

「離婚はふたりが出した結論だし、それに異を唱えるほど氷室は子どもではなかった。」と書かれているのですが、これは過剰な感情表現が人を困らせる、トラブルを悪化させるということをどこかで学習したのでしょう(そしてこれは不全感にも繋がります)。なので、自分の負の感情を抑え、極力感情を出しすぎないという癖が自然と身についたのでしょう。これはあくまでも私個人の憶測なのですが、こう考えるとなんとも切ないですよね……。

親の離婚は子どもにとってあまり良い影響を与えない(場合によりますが)のですが、氷室零一は分かりやすく道を外すようなことはしなかった、というのが興味深いところなんですが、それは、氷室零一にはピアノ(音楽)があったからなのではないかと私は考えています。

氷室零一の音楽に関するスチル(「ピアノを弾く氷室先生」「少しラフな氷室先生」「ジャズのメロディに乗せて」)では、氷室零一の感情が表情や音に現れます。何が言いたいかと言うと、氷室零一はピアノ(音楽)を通じて自身の抑えていた感情を表出できていたからある程度気持ちの整理ができ、大きく道を外すようなことがなかった、ということです。ピアノや音楽に日常的に触れていた氷室零一が唯一感情を流すことができる方法。わざわざ言葉にしなくても「音」や「リズム」に形容しがたい感情、抱えきれない大きな感情を表現することができる。

また、この見方はかなり切なくて胸が苦しくなるのですが、家に音楽が溢れていた氷室零一にとって、音楽が「家族のつながり」を感じられる唯一のものだったのではないかとも私は考えています。音楽さえ続けていれば、たとえ父と離れて暮らすことになっても「つながり」を感じていられる。「人とのつながり」は人に安心感をもたらします。氷室零一にとってのピアノ・音楽は、形容しがたい感情を表出するツールであり、また家族のつながりと安心感を得られるツールでもあったのではないかと思いました。

氷室零一の「アンドロイド性」の源泉がなんとなく見えてきたでしょうか。次章では、ゲーム内の会話やイベントから垣間見える氷室零一のアンドロイド性と私なりの考察を簡単に書いていきます。

3.イベント、会話から考える「アンドロイド性」

3-1.『ため息』とジャズ

まずは、氷室零一の音楽関連イベント「ピアノを弾く氷室先生」「ジャズのメロディに乗せて」から、氷室零一について考えていこうと思います。第2章でも述べましたが、氷室零一にとって、音楽というものは感情の表出をするのに非常に意味のあるものとなっています。このイベントにはどんな意味が込められていたのか、私なりに考察していきます。

見出しにある『ため息』とは、イベント「ピアノを弾く氷室先生」で聴くことができるリスト作曲のピアノ曲のことです。ちなみにこれは、『3つの演奏会用練習曲』の第3曲に当たります。

このイベントは氷室先生の好感度が友好になった直後に発生します。つまり、主人公のことが気になり始めたタイミングになりますね。そのタイミングで、放課後静かな音楽室の中で一人、「ため息」を弾いているのです。なんか、意味ありげですよね……。

『ため息』の曲調に関しては、氷室零一を攻略したことのある方なら聴いたことがあると思いますが、改めてWikipediaの解説から、この楽曲の特徴を見ていこうと思います。

アレグロ・アフェットゥオーソ、変ニ長調、4/4拍子。

ここで特に注目したいのは「アレグロ・アフェットゥオーソ」。「アレグロ(allegro)」は「陽気な・快活な」という意味で、特に音楽用語では「速く」という意味で使用されています。静かに流れるような曲ですが、結構忙しなく色んな音が鳴っていると思います。結構速い曲なんです。そして、「アフェットゥオーソ(affettuoso)」の意味がなかなかにエモくて(私の好きな音楽用語でもあります)、「やさしく、愛おしく」という意味があります。

アルペジオと両手で旋律を歌い継いでいく練習曲。

これ、曲集名にもあるように「練習曲」なんですね。アルペジオというのは和音を同時に出すのではなく、和音を構成する音を一音ずつ順番に弾いていく演奏法のことで、これが指を動かすいい練習になります。そして、アルペジオで正確にリズムを刻みながら、その上で旋律を紡いでいく。またWikipediaには「流れるような甘美な旋律が曲を通して歌われ、後半には「タールベルクの三本の手」の技法が典型的な形で用いられる。」との記載もあります。

アフェットゥオーソ、アルペジオ、流れるような甘美な旋律。

見事なまでに氷室零一という人間を表すに相応しい曲だと思いませんか!?アルペジオは氷室先生らしい正確性・規律が表現されていますし、アフェットゥオーソと流れるような甘美な旋律は、感情の芽生えのようなものを感じさせます。この『ため息』という曲には主人公に抱いた新たな感情を音楽として表出するために演奏したのではないかなと私は考えています。また、公式小説では家族への思いが込められているような書き方をされていました。主人公とのかかわりを通じて得た感情をきっかけに、家族に抱いていた言葉にできない感情もふいにこみ上げてきたのかもしれません。言葉にならず“ため息”しか出ないけれど、それは負のイメージを持つため息ではなく、もっと温かい意味のこもったため息なんだろうなと思いました。

この解釈が正しいかどうかは分かりませんが、とてもエモいので個人的には推していきたいです笑

さて、次に好感度「好き」以上で見ることができる3年目のクリスマスイベント「ジャズのメロディに乗せて」について。

このイベントの注目ポイントは、あのクラシック好きの氷室零一が「ジャズ」を演奏しているというところです。

クラシックは基本的に楽譜に忠実に演奏することが求められます。まさに氷室零一っぽいですよね。しかし、ジャズというのはリズムを色んな形に崩しながら即興で演奏するようなスタイルになっています。「スウィング」という言葉で表現されるリズムですね。

ここでも氷室零一の家族が絡んできます。第2章の最初に、父親はジャズピアニストだったと書きました。ジャズは離婚して家を出た父親が演奏していたジャンルなのです。氷室零一は、特別ジャズを好んでいたわけではないと思うのですが、ジャズへの抵抗感はなかなか拭えなかったのではないかと思います。ジャズを演奏するということで、自分を育ててくれた母親を裏切るような感覚もあったでしょうし、リズムを崩しながら即興で変化させていくその音楽表現は、感情表現が苦手な氷室零一にとってはとても難しいもので、なおかつ気持ちの整理がついていない父親の面影を感じてしまうということにも抵抗感があったと考えられます。そんな氷室零一が、その時すでに明確に自覚していたかどうかは定かではありませんが、恋愛的な好意を抱いている主人公のいる場でジャズを演奏したこと、これはとてもすごいことなのではないかと個人的には思っています。

無色透明な自分に彩りを与えてくれた主人公。その「彩り」を音楽で表現するためのジャズであり、主人公を通じて得たもっと精度も彩度も高い感情によって、父親への気持ちもある程度整理できたからあの場面で今まで忌避していたジャズを演奏できたのではないかと思います。あのイベントは氷室零一の人間的な成長、別の言い方をすれば「アンドロイド的な氷室零一」からの脱却を表現する、非常に感動的で感慨深いイベントだと読み取ることができるのではないでしょうか。

3-2.氷室零一とホラー

氷室零一には「ホラー好き」という設定があります。これ、ずっと謎だったのですが、今回の考察を期に色々と考えてみた結果、自分なりに納得のいくものが見つかったので、それを説明していこうと思います。

ホラー関連のイベントに「オバケ!?」というものがあります。ここでの氷室零一の発言から、彼のことを深堀りしていきます。

では、早速イベントのセリフの一部を見てみましょう。氷室零一が自分の過去を語る貴重なイベントでもあります。

「いたずら好きの友人が私を町内の肝試し大会に連れ出した。おそらく私の泣きっ面でも見てやろうと思ったのだろう。途中、彼は私を置き去りにした。しかし私は負けなかった。なみいるお化けに、たった独り敢然と立ち向かった。やがて出口にたどり着いた時、私は口元に微笑さえ浮かべていた。そしてそのとき、私はお化けの恐怖を完全に克服したのだ」

 

こんな感じで、小学二年生の時の氷室少年の話(武勇伝)を拝聴することができます。

これ、単なるお化け克服に至るエピソードではあるのですが、氷室零一というキャラクターを説明する上で重要な要素だとも思いました。

第2章に括弧書きでさらっと書いた「不全感」に関わってきます。自分よがりな感情表現は他人を困らせてしまうおそれがある、そして、子どもの私が親の離婚をどうすることもできない、という経験と学習から、自身に“完全ではない私”という思いを植え付けてしまう。おそらく、このお化け克服までは自分に自信を持てない子どもだったんじゃないかなぁと推察します。

この肝試し大会の一件で、自分の「弱さ」を克服するという体験をしたことによって、自分は弱い人間ではない、一人でも困難に立ち向かえる力を持っているという自信に繋がったのでしょう。ただ、これには少々問題があって、自分の弱さを完全に克服してしまったと思い込むことで、ネガティブな自己表現・感情表現を抑え込むことにもつながってしまったのではないかと私は考えています。また、一人で生きていける、という過信も。この完全無欠感が氷室零一の「アンドロイド性」に通じていると考えることもできるのではないでしょうか。

あと、ホラーに関してもう一つ。氷室零一とのデー…じゃなかった、二人きりの社会見学でホラー映画を観に行くことがあります。そこで、主人公がホラー作品に対して否定的な反応を示すと、氷室零一は「この作品はただのホラーではない」と慌てて作品の擁護に回ります。これは、氷室零一がホラーというジャンルを自分自身と重ねてみているからだと思うんですよね。「ホラー=怖いもの」と認識している人は多くいると思います。ただ、ホラーでも人間の根源的な部分を描くものもあります。氷室零一は「もはや哲学とも言える」と発言しています。ホラーと一口に言っても、その内実は多様なんですよね。氷室零一は学校では規律に厳しく、“怖い”というイメージを持たれがちです。でも、実際は怖いわけじゃない。好意を寄せている主人公には私の本質を見てほしい、知ってほしい、という思いが込められているのでは?と思いました。ホラー映画デ……社会見学をそういう風に見ると、氷室零一がすごくかわいく見えてきますね☺

3-3.氷室零一と爬虫類

ホラーもそうなんですが、氷室零一は結構いろんなものを自分と重ねていたり、シンパシーを感じていたりするんですよね。

そのシンパシーを感じているものの一つが「爬虫類」。動物園の社会見学(3回目)で、主人公が「先生とどこかよく似た爬虫類です」と答えると、好感度が好き以上のとき「確かに……私は爬虫類に対するシンパシーを禁じえない……。しかし、それは大きなお世話だ。」と返します。面白いですよね。

爬虫類の何とシンパシーを感じるのか、自分なりに考えた結果「体表が鱗に覆われている」というところかな、と思いました。鱗というと、爬虫類だけでなく魚類も有しているのですが、なぜ魚類ではなく爬虫類の方にシンパシーを感じたのでしょうか。

魚類と爬虫類の鱗には

・魚類:皮膚と独立しているために強い刺激があるとパラパラと剥がれ落ちる

・爬虫類:皮膚と一体化しているために、強い刺激が加わっても剥がれ落ちることはない。

という性質の違いがあります。

「強い刺激が加わっても剥がれ落ちることはない」というのが、見事に氷室零一の「アンドロイド性」を表す表現だなぁと思い、一人で納得してしまいました。

鱗を覆い、脱皮しながら成長していった氷室零一。んー、愛おしいですね。鱗によって完全性を保っていながら、でも自分の本質部分も知ってほしいというのもなんとも切ない設定ではあります。

ちなみに、余談になるのですが氷室零一が爬虫類以外にシンパシーを感じているものがあって、それがはば学のプリンス「葉月珪」です。葉月君は両親と離れて暮らしているので、そのあたり家庭環境がちょっと似ている感じはしますね。親と離れて暮らした者同士、シンパシーを感じる部分があってもおかしくはないなと思いました。これは、葉月珪と氷室零一の外出イベントで確認できますので、ぜひ見てみてください。

3-4.親友ルート

DS版で追加された罪深い新要素「親友」。なんと教師である氷室零一も親友にすることができます。

この親友ルートでは氷室零一の良さがまた少し違う角度から味わえますし、アンドロイド性が垣間見える会話も色々とあるので、そのあたりを中心に語っていこうと思います。

氷室零一の親友ルートでは、彼の恋愛観・ジェンダー観的な部分でアンドロイド性が見えてきます。まずは、親友ルートで見られる、デート後・下校での会話を中心に見ていきましょう。

まず、彼の女性観というのがかなり特殊と言いますか、見事なまでのステレオタイプなんですよ。「異性として意識してもらうには?」という質問に対して、「髪にリボンなどをつけてみてはどうだろうか。華美にならぬよう、注意が必要だが」と回答します。氷室零一はピュア属性好きなので、髪にリボンをつけている女性は彼の好みでそういう意味でアドバイスとしたともとれるのですが、リボンを「女性を象徴するアイテムの一つ」として捉えている側面もあるんだろうなと思います。恋愛経験がほとんどないと自分で言っているので、女性との接触は必要最低限に留めていただろうし、これまでに私が述べてきたように女性だけでなく人との関わりを深く持つこと自体を避けてきた部分があると思うので、「ステレオタイプに頼ってしまう」のも頷けます。ステレオタイプな答えを言っておけば、恋愛のアドバイスになると思っている節があるのでしょう。

恋愛観についても同様です。「キスについて」「男の人について」という話題になったときは、キスという単語に過度なリアクションをとったり、異性について知りたいという気持ちを「思春期特有の悩み」として位置づけ、保健体育の先生に相談することを勧めたりしてきます。ここで分かることは、彼の恋愛観は特に「性的な部分」にフォーカスされている、ということです。恋愛というのは性的な関係が全てではないはずなのですが(もっと言えば、性的な関係を排除し恋愛関係を築いているカップルもいる)、キスや男の人の話になったときのあの慌てっぷりを見ると、氷室零一は「恋愛≒性的な関係」と思っているのではないかと推察できます。もちろん、社会的にまだ未熟であることが多い高校生が性的な関係を持つことの危険性も知識としてあるからこそ、主人公が性的なことで後悔することが無いようにアドバイスをしている、と捉えることもできます。

次に、親友デート時のデート評価会話を見ていこうと思います。

デート選択肢によって評価が変わることは皆さんご存じだと思います。評価〇の選択肢を選んだときは、「フム……この調子だ。評価はBだ。本番での健闘を祈る。」と言います。デートをABCで評価してしまうあたりがアンドロイド感ありますよね。デートというのは本来数量化できるものはないと思うのですが、デートでの様々な要素をまるでテストの採点をするかのように数量化して総合的に評価してしまうところがまさに彼らしい部分だなと思います。
でも、これが面白いことに評価◎(バッチリ好印象)のときは、「充実した一日だった。つい、評価を忘れていた……もうこんなことをする必要も無いかもしれないな」と言うんです。このセリフが非常にエモーショナルでお気に入りなのですが、ここに彼の恋愛に対する概念に広がりを持ち始めるのを感じられるのでいいですね。主人公と関わることで単調なアンドロイド性から抜け出していくその様子を端的に表すいいセリフだなと個人的に思っています。

親友ルートでも彼のアンドロイド性が見事に表現されていて面白いですね。

次章では「概念と現象」というテーマで、今まで書いてきた彼のアンドロイド性についてまとめていこうと思います。特に親友ルートはまさにこの概念と現象の葛藤を分かりやすく描いているというのが分かるのではないでしょうか。

4.概念と現象

さて、「概念と現象って何?」と思われた方、たくさんいらっしゃると思います。ゲーム本編ではあまり使われていないと思うのですが、公式小説の方ではこの「概念と現象」というのが非常に大きなテーマとして書かれていて、度々この言葉が登場してきます。

ここまで紹介してきた彼のアンドロイド性について、この「概念と現象」でほぼ説明できるかなと思います。長い文章で疲れてきているかとは思いますが、もう少しお付き合いいただけると嬉しいです。

さて、まずは概念と現象という言葉の意味を押さえておきましょう。

【概念】

①物事の概括的な意味内容。

形式論理学で、物事の本質をとらえる思考の形式。個々に共通な特徴が抽象によって抽出され、それ以外の性質は捨象されて構成される。内包と外延をもち、言語によって表される。

【現象】

①人間が知覚することのできるすべての物事。自然界や人間界に形をとって現れるもの。

(②に関しては哲学を学んでないと訳わからないと思うので省略します)

引用元:goo辞書

 

理解しやすいように簡単に言ってしまえば、概念は抽象、現象は具体、と捉えてもらっていいと思います。そして、氷室零一のアンドロイド性というのがこの「概念」に当たります。様々な現象の共通項を抽出して言語で表現したものを概念と考えてもらってもいいかもしれません。つまり、「ステレオタイプ」というのもいわゆる概念的なものなのかもしれません。goo辞書にもあるように、概念は「物事の本質を捉える思考の形式」と表現されています。“本質”という言葉はゲーム中でも何度か出てくると思いますし、彼が好んで使っている印象があります。概念のこの性質がなかなかに厄介で、物事の“本質”だと思わせる力があることに問題があります。概念とは物事の概括的な意味内容でしかなく、一部の性質が捨象(無視)されてしまう、という特徴もあります。彼は、物事を概念的に捉え、それを正しいと思い込んでいるのですが、それは概念があたかも物事の本質を捉えているように見えてしまうからです。本質主義の危険なところは、決めつけを生んでしまうことや、人間は本質的に不変であると思い込ませるところにあると私は考えています。本当はもっと多様であるはずの人間をありのまま見ることができなくなる恐れがあります。

氷室零一は、正しいことが好きです。なぜなら、正しいことをしていれば批判されることはほぼないからです。規律を守っていれば、少なくとも罪に問われることはありません。これは、彼にとって社会に適応していくための一つの方法だったのでしょう。ただ、罪に問われないからと言って規律を遵守したり、押し付けたりすることが加害的ではないとは言い切れません。法や規律も完璧ではないので、例えルールを守れていても人を傷つけることは多々あります。実際誰しも傷ついた経験あると思いますし……。氷室零一の厳しさが生徒にとって時に加害的に映ることもあり得るでしょう。彼と深く関わることができればその問題はある程度解消できるかもしれませんが……。

とはいえ、「氷室先生は厳しいけど、柔軟なところもあるよ!」と主張したい人もいるでしょう。これについては私も同意しています。なぜ、こんなにも物事を概念的に捉えているにも関わらず、時に彼に対し柔軟性も感じるのか。自分なりに考えたことを紹介しようと思います。

氷室零一の柔軟性は、「教師としてあるべき姿」「知識量(語彙の豊富さ)」から生まれているのではないかと思います。

彼は「教師」というものを、生徒を教え導くという上下の関係でとらえている部分もあるのですが、それと同時に「生徒の可能性を信じるべき存在」とも考えているんですよね。この辺りは私の過去の考察で語っているのでそちらで読んでいただければと思います(ブログ→『はばたき情報局』)。生徒の可能性を信じるというのは多様性を受け入れていくことと似ています。理想的な教師でありたいという強い思いが彼に多様性をもたらしています。面白いですね。

また、氷室零一は「たくさん勉強してきた人=知識量が豊富」だと思います。ある研究で、語彙の豊富さと共感能力には相関があるという結果が出ています。例えば、シャーデンフロイデ(Schadenfreude)というドイツ語があるのですが、これは「他人の不幸を喜ぶ」という感情を示す単語です。喜びという感情の一種です。「喜び」という言葉についてポジティブなイメージを持つ人が多いと思うのですが、喜びにも様々なものがあります。シャーデンフロイデという言葉(概念)を知っていることが「喜び」にもネガティブな要素があることに気付けます。つまり、語彙が多ければ多いほど、他人の細かな感情に共感しやすくなるということです。氷室零一はたくさん勉強して多くの語彙を獲得してきたからこそ、ある程度の共感能力、社会への適応能力を持てたのではないでしょうか。しかし、全ての感情に言葉がついているわけではないですし、仮にそれが存在したとしても全て覚えることは非常に困難です。語彙が多い人は共感能力が高い、というのはあくまでも“傾向”の話であって、実際には語彙が少なくとも共感能力が高い人は存在します。語彙が少なくても共感能力が高い人は、「喜び」という言葉にも多様性があることが感覚的に理解している人だと思います。公式小説でいうとそれが最終的に氷室零一と結ばれる主人公「二宮未緒」なんです。彼女は学力が低いものの、感情粒度が高い。感情を言語化するのは苦手だが、一つの言葉に様々な意味が含まれる可能性に感覚的に気が付いているんですよね。一見、ネガティブに見えるような事象でも、彼女はポジティブに捉えることができる。それが氷室零一の「概念」に多様性を生んでいったのです。告白セリフの「無色透明な私に彩りを与えてくれた」は、きっとこういうことなんでしょうね。全ての言葉、物事の実際は実に多様で、それが「現象として捉える」ということなのだと思います。

親友モードでの会話で、主人公が「このまま、終わっちゃいそうな気が……」と氷室零一に相談するものがあるのですが、これ、実は二種類の反応があるらしく、ある条件を満たすと見れるその会話がまさに「教師と生徒」という概念と、親友でありながら心のどこかで主人公に恋愛感情を抱いてしまっている「一人の人間」としての心の葛藤を想像することができます。このセリフを主人公に伝えるときに、どれほどの覚悟を持っていたのか、そして教師として恋を応援する親友としての概念と格闘したのかが見えてきて泣けるので、気になる方はぜひ親友氷室の攻略を頑張ってみてほしいです。主人公と関わることで、彩りのある世界を知ったにもかかわらず、教師として親友としてそれを断念しなければならないその苦しさを想像すると、本当に胸が締め付けられます。

氷室零一にとっての概念とは、「人や物事との距離を適度にとって感情に振り回されないための手段」であり、「社会に適応するための手段」でもあるんじゃないかな、と私は考えています。自分の感情や相手の感情と距離を置いて、社会の規律に従順になることで自分を守ってきたけど、それが人間的な要素を排除することになり「アンドロイド性」を帯びていく結果となってしまったのでしょう。しかし、アンドロイドっぽくなっていったその経緯を見ていくと、そこには人間味が隠れています。今回の考察でそういう部分も分かってもらえたらいいなと、私は思っています。

 

5.おわりに

さて、様々な角度から氷室零一の「アンドロイド性」を考察してきました。彼がなぜ周囲からアンドロイドと評されるようになったのか、どのような経緯でアンドロイド性が現れ、そしてアンドロイド性から解放されたのか、今回の考察でそれが伝われば幸いです。

個人的には、今回の考察で一見謎な要素である「ホラー好き」にも言及できてよかったなぁと思っています。公式小説からは彼の家族関係について知ることができ、彼のことを深める良いきっかけになりました。

親友ルートでは、通常ルートでは味わえない彼の良さに気付くことができました。今回の考察を読んで気になった方はぜひプレイしてみてほしいです。

というわけで、非常に長い考察になってしまいましたが、最後まで読んでくださってありがとうございました!GS4では「教頭」として登場するみたいです。また彼がどんな風に変化しているのかとても楽しみです。中間管理職である教頭という立場になって、また彼はいろんなことを学んでいることでしょう。

 

 

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以上です!
かなりのボリュームになってしまいましたが、最後まで読んでくださってありがとうございました!!

氷室先生の考察については過去二回記事にしていますので、そちらも読んでいただくとより理解が深まるかと思います。

 

key-habataki.hatenablog.com

 

key-habataki.hatenablog.com

 

この記事をきっかけに、氷室先生を攻略したいな!公式小説を読んでみたいな!と思っていただけたら最高に嬉しいです!!

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